万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 3日目① 白家堡子万人坑2010/09/23

9/23(木) 通化周辺と遼源

7:30ホテル発、白山市へ移動(約1時間)■白家堡子の万人坑(白家堡子惨案紀念碑とお墓)を参観予定だったが、あと10キロというところで、片側道路工事中!対向車が来たら、バックするしかないという事で、諦めて石人へ向かう。残念だけど仕方がない(T_T)。白家堡子まではどんどん山を登っていき、ここも見晴らしが素晴らしく平和で美しいところだった。そこで、平頂山事件のような虐殺事件があったのだ。是非、現場で慰霊したかったが、それはまたの機会にする。車中で祈りを捧げる。

② 白家堡子万人坑・・・虐殺による万人坑(吉林省通化県興林郷)

白家堡子惨案と万人坑 

ここは典型的な虐殺による万人坑です。白家堡子は吉林省通化県興林郷にある村です。1936年7月15日、日本侵略軍が討伐として、ここの住民400人あまりを虐殺し、白家堡子惨案を起こした。《通化文史資料》第1集を参考。
9・18事変の後、中国共産党の指導を基にして、中国人民が奮起して日本侵略者に反抗した。東満地区は抗日連軍第一軍が多く活動していたところです。興林郷の大部分は当時の河里の基地として、病院や布団工場など皆そこにおいたり、軍隊の整備と訓練もすべてそこで行った。それで興林郷地区は日本軍がとても気になるところとなった。1936年に「治安粛正三ヵ年計画」を作り、そのうち東満に対する討伐が一つの重要な内容となった。

1936年7月、抗日連軍部隊が雷家門溝で日本軍の討伐隊を襲撃した。日本軍は白家堡子周囲25キロの範囲を「通匪区」と考えて、この地区で報復的な討伐を行うことを決めた。7月14日、翌日に大荒溝に集まって皆には食料を配ると村民たちに嘘をついた。普通の村民たちは日本軍が何をするつもりかわからないので心配して行くつもりはなかった。
 翌日の朝、日本軍の中山大尉が中隊を連れて、白家堡子地区に闖入し、村民の皆を捕まえ、紐で縛り付けてから大荒溝に追い払った。反抗する人や歩行が困難で妊婦や年配者をその場で殺した。正午、日本軍が捕まえた400人あまりの村民達を大荒溝警察署の庭中に集め、分けて拷問した。通匪者だと見なされた人はその場で銃剣で刺し殺したり絞め殺したりした。その後、村民を分けて死刑執行場まで追い払って、銃剣で刺し殺した。死体は山ほど積み重ねた。最後は残った数多くない人を東山根まで追い払って、機関銃で掃射し、皆を殺した。虐殺中に、日本軍が妊婦の腹を銃剣で切って、赤ん坊を銃剣の先で遊んでいた。
  翌日、警察が人を東山根へ死体を埋めに生かせた。九つの穴を掘り、374体の死体を埋めた。村で殺された人や重傷して死んだ人を入れたら、計400人あまりの平民が殺された。1965年、通化県人民政府は白家堡子に殉難同胞記念碑を建て、碑の後ろにコンクリートの墓を作って、死んだ人たちの遺骨を埋めた。1983年12月、今の人たちが日本帝国主義の罪を忘れないように、吉林省政府は白家堡子惨案記念地を吉林省の重点文物保護単位に指定した。
(中国資料:日本关东军罪行より)

* 白家堡子の万人坑・・・今回は現場まで行けず。。。(ToT)

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 3日目② 石人血泪山万人坑2010/09/23

道をききながら、石人血泪山万人坑へ辿りつく。ここは youtube に荒れ果てた展示館の内部の映像が投稿されていたり、ネットで情報を見つけられた。が、ここ数十年は管理者がなく、荒廃した状態になっている。私は平頂山のように整備された立派な記念館だけを参観するつもりはない。この旅のテーマは「学習」と「慰霊」。見学できる遺骨や展示がなくても、慰霊の意味で、この約1万人の人々が埋まっている石人血泪山万人坑は是非訪れたかった。現状では予算の関係で参観しやすいところの施設を充実したものにするため(例えば平頂山の記念館)対象にならないところは放置されている状態のようだ。昨年、訪れた遼寧省の弓張嶺の万人坑を見た時、本当に悲しかった。あまりに平頂山と違いすぎて、、、この石人血泪山万人坑も同じだ。平頂山の対極にある。今年の4月、中国の新聞が石人血泪山万人坑について報じている記事を見た。漢字だらけの中国語の文字から察するに、歴史の跡が放置されている現状と、速やかな整備や修復が必要だ、というような意味が書いてあった。是非、そうして欲しい。

* 階段を上がったところに紀念碑があり、階段の上り口には当時、日本人に協力した3人の実在した中国人の像が跪いている像がある。

 ③ 石人血泪山万人坑・・・炭鉱労働現場の万人坑(吉林省白山市郊外)

吉林省江源県大石人鎮光環街の北側に位置する。時期は1945年。1983年11月24日吉林省人民政府に重点文物保護単位と指定された。もともと「浴淋塔山」と称され、敷地は50万平米ある。日本軍とその傀儡軍が統治した時、石人鉱で亡くなった1万人余りをここに埋めたため「血泪山」と呼ばれた。1963年、階級教育展覧館を建て、記念所8箇所が作られ総面積は1300平米ある。真ん中には高さ15メートルの記念碑があり、
「日偽統治時期死難鉱工記念碑」と書いている。碑から下に百段の階段があり、入口には鉄で鋳造された、跪いている罪人像がある。現在は一部分の建物が壊れている。

当時、日本侵略者が白山市石人鎮で炭鉱を開設し、多くの漢奸や手先を集めて、各地から連行された労働者を監視した。死んだり病気になったりした労働者を炭鉱の近くにある山に捨てた。それで「血涙山」と呼ばれた。山には長さ200メートル深さ3メートルの溝があり、労働者の死体は溝に平らに埋められて、「填人溝」と呼ばれる。
雨の時は、死体は流されて、山腹は白骨で覆われ、「白骨坂」となった。山腹にでこぼこのところがあり、下は白骨ばかりで、万人坑と称される。万人坑は何十箇所からなっている。新中国が成立した後、ここで長さ39メートル、幅6.6メートル、深さ2.6メートルの穴を掘ったが、その内の10メートルだけで38体の死体が現れた。

1964年、通化鉱務局が白山市石人鎮血涙山の万人坑の近くに教育展覧館を建て、当時の日本侵略者が中国の労働者を酷使する悲惨な歴史を展示していた。しかし、今現在は血涙山にあった一部分の実物や遺跡はもうすっかりなくなった。展覧館も没落した。血涙山では見学できるポイントは記念碑以外に8つあった。それぞれ老君廟、父子墳、夫妻墳、万人坑、填人溝、尸骨重(白骨が重なる)、白骨坂、遺骨館があった。だが、現在は沢山の建物は人為的に破壊されたり取り壊されたりして、記念碑とその東にある花輪長廊および父子墳、夫妻墳以外はまったく残されていない。血涙山遺跡は急いで再建し、愛国主義教育の使命を負うべき教育的使命である。
(中国資料:日本关东军罪行より)

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 3日目③ 遼源炭鉱の万人坑2010/09/23

12:30~13:30白山市内にて昼食。遼源へ移動(約3,5時間強、、予想より遠かった)
16時頃~ ■遼源炭鉱の万人坑を見学(遼源鉱工文物館・遼源鉱工墓・遺骨保存館・遼源鉱務局など) 元館長から当時のお話を聴く。近年退職された劉元館長さんの尽力で2006年にこちらの展示が完成されたとのこと。大変見応えのある、内容のある展示だった。一人でも、その「思い」がこうした形になるのだ!と嬉しかった。 
遺体は整然と並べた形で発掘された当時のまま。手足がないのはすでに腐っていたのでないのだという。万人坑というと、無造作に投げ込まれたイメージがあるが、時期によれば棺に入れて埋葬されていたり、このように整然と埋葬された場合もある。埋葬された時期がわかれば、人のいのちの扱いがどのように変化したのかも推察や分析ができるだろう。

ここにも中国人の親方?のような、後ろ手を縛られて跪く像がひとつあり、鼻はなくなっていた。。。
 
遼源市内にて劉館長と共に夕食後、ホテルチェックイン

☆遼源 泊 雅柏国際大酒店(4つ星クラス)


④ 遼源炭鉱万人坑・・・炭鉱労働現場の万人坑(吉林省遼源市郊外)

旧称=西安炭鉱(現在は遼源炭鉱)
1931年~ 西安炭鉱(株) 
1934年~ 満州炭鉱(株)
西安鉱業所 石炭=1581万トン略奪。
労工の大部分は華北から。だまして募集したり強制連行したり。鉄条網内の宿舎に監禁。狼犬が逃亡監視。

逃亡に失敗し、みせしめで狼犬に食い殺される人。 刑罰=80種類。みせしめで手足を切り落とされた人。人間地獄、過酷な労働。

多数が約半年で死亡。1年以上生きて働く人は3分の1。労工の平均寿命=30・5歳。

1963年に遺骨が発見された牛世清さんの労働票(1ヶ月の賃金明細)賃金32元。食費・住居費・野菜代・借金返済・等々差し引かれ4元不足。死者=8万人以上 ⇒ 6つの万人坑
そのうち、遼源鉱工墓のある方家塚万人坑に1万人。1941年から遺体を埋めはじめ、1年8ヶ月でいっぱいに。⇒ 煉人坑(遺体焼却炉)1943年から稼動 
方家塚万人坑:1963年発見 面積20万平方メートル 
発掘現場の一部を遺骨保存館にして保存、3列179体の遺骨。展示館:2001年建設開始。遼源鉱工文物館・遼源鉱工墓2004年建屋は完成、内装と展示は未完成。
(青木茂さん 2004年訪問時情報より)