万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 1日目 旅立ち・出会い・再会 (^^)/2010/09/21

平和学習の旅 中国 2010
 万人坑を知る旅 ②
 ~吉林省の万人坑~

■期間 : 2010年 
9月21日(火)~
26日(日) 5泊6日

■同行解説: 李秉剛さん
(中共遼寧省委党校 元教授)

昨年の遼寧省の万人坑参観に続き、今回は吉林省の万人坑を中心に参観します。
参観の目的は万人坑を知る、学習と犠牲者への慰霊です。今回は5ヶ所の参観を予定しています。


旅立ち・出会い・再会 (^^)/

12:15関空に集合。今回の参加者は私を含め9名。去年より3人も多い!(^^)!
中帰連の大河原さんや西尾さんも是非参加したいと連絡をいただいたけど、体調や都合でお2人とも一緒に旅をすることはできなかった。。。今では中帰連の方と旅をすることはないだろう、と思っていたので、連絡を頂いただけでもすごく嬉しかった。
中国南方航空(CZ)の632便にて14:20発。 瀋陽着15:30予定。フライトが少し遅れ、お待たせしました!瀋陽空港にて李老師、通訳ガイドの張さんと合流し、専用車にてそのまま撫順へ移動(約1時間)李老師は出口で参加者を笑顔と握手で迎えて下さった。張さんはもちろん、ドライバーさんも去年の董さんを早くからリクエストした。運転技術はもちろん、何かと笑顔でサポートしてくれる感じの良い人なので。やっぱりひとだよね~。夕食後、ホテルチェックイン 。今夜は泊るだけなので、去年と同じホテルにした。明日からは4つ星。ホテルの近くのレストランで食べた夕食は美味しくて、皆さんも喜んでいた。

☆撫順 泊 煤都賓館(3つ星クラス)

* 空港から撫順へ向かう車中で自己紹介される李老師と通訳する張さん

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 2日目① 撫順戦犯管理所2010/09/22

9/22(水) 撫順と通化

8:00ホテル発、露天掘り、撫順戦犯管理所の新展示のみを見学。猛暑の大阪を離れて、気温は15℃くらい。東北地方は湿気もなく、秋晴れの高く雲のない空を見上げて爽快な気分!戦犯管理所は見事に改築され、数年前に訪問した際、工事で荒れていた庭もすっかり整備されていたし、新展示も想像以上に良かった。先月、大阪市内で故桧山高雄さんのパネル展を開催した。ここにはオリジナルの油絵も8枚展示されていた。乾燥して絵の一部が崩れているところもあるけど、桧山さんの想いを直接表現した原画に向き合えた。改めて、凄い絵だと感じる。

驚いたのは、関西支部第2次訪中団の際の写真や管理所に贈呈したお父ちゃんの書とあさがおの額が展示されていたこと。本人もとても喜んでいました。その様子を見ておられた李老師は「皆さんも撫順の歴史になっているんですよ。」と言われた。

 * 撫順戦犯管理所で展示されていたお父ちゃんの書とあさがおの額

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 2日目② 平頂山万人坑2010/09/22

今回は時間の都合で職員の方との面会や交流の時間は持てず、平頂山の万人坑(平頂山惨案記念館)を参観。何度対面しても被害者の悲鳴が聴こえてくるようだ。。。

① 平頂山万人坑・・・虐殺による万人坑(遼寧省撫順市)

平頂山事件とは、1932年9月16日、撫順炭鉱を襲撃され面目を失くした日本軍守備隊の報復による住民虐殺事件。当時の平頂山村は撫順市の南東4kmに位置し、500世帯、3000人の住民が居住していた。

事件の経緯:9月15日、抗日義勇軍が撫順炭鉱を襲撃した。撫順炭鉱の被害は死亡=5名 負傷=7名だった。
9月16日、日本軍守備隊は抗日義勇軍が通過した平頂山の村民虐殺を決定し、即日実行した。日本軍は平頂山から2.5kmの千金堡でも虐殺した。

平頂山殉難同胞遺骨館には平頂山村の住民ら3000人が集団虐殺された現場が、そのまま保存されている。

平頂山惨案記念館は1972年9月16日に開館。2007年9月16日大改装が行われ、新たに建設された巨大な資料館も2009年春に開館している。

平頂山惨案記念館には平頂山殉難同胞遺骨館と平頂山殉難同胞記念碑があります。

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 2日目③ 靖宇陵園2010/09/22

11〜12時:昼食
12時頃、 撫順を出発、吉林省通化市へ移動(約3時間)16時までに 抗日烈士陵園へ入園、参観後、楊靖宇記念館を見学する。いよいよ、初めての吉林省へ。撫順から通化までの長いドライブの車窓からの眺めは、まさにハーベスト!稲穂の色と山の緑色。大きな空。どこまでもどこまでも続く果てしない空間、なんとダイナミックな風景。収穫の季節の黄金系の色合いでとても美しかった。が、そんな美しく広大な自然にのんびりと囲まれた山村に、侵略戦争時には抗日義勇軍の拠点の村があったんですよ、と李老師から説明を受ける。日本軍もこんなところまで来ていたのか、と思うとこんなに素敵なところなのに、時が違えば地獄にもなるんだ・・・、としみじみ思う。

さすが!董さん、16時5分前に靖宇陵園に到着!先ずは楊靖宇の遺体を安置した陵園へ。階段を上り門を入ると、そこから通化市内を一望できる。献花と祈り。ここは澤地久枝さんが戦後日本人では初めて来られたところ。当時の澤地さんの取材による「もうひとつの満州」は必読だった。参観後、記念館を見学。侵略に対して当時、組織的に抵抗、対抗していた無数の中国の人々に対面した気がした。万人坑についての展示コーナーもあり「人間地獄」と紹介されていた。

「通化事件」が起きた場所、情報が少なくて通化市はあまりイメージが湧かなかった。何となく風情のある街じゃないかなぁ、と思っていたが、果たして、それ以上、炭坑の町じゃないので、まず空気がきれい。垢ぬけた小都市といった感じで、遠く山に囲まれた街の中を川が流れ、落ち着いた雰囲気で宝塚の街みたいな感じだった。とにかく、街が小ぎれい。。そして、夜のネオンがめちゃ綺麗☆中国特有の派手でキラキラでなく、色もデザインも大人っぽくアートな感じで通化はなかなか素敵な街でした。写真を撮るのを忘れて、車窓から通化の夜景にうっとり見とれました。

ホテルには大浴場があり!(男湯のみでした)私たち親子3人はアカスリを。(*^_^*)アカスリをしてくれた係の人は朝鮮系の人で中国語は話せないようでした。朝鮮に近いところなので、この晩は朝鮮の家庭料理をいただきました。今回も変化のある食事で食べるのが好きな張さんのチョイス、さすがでした~。

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 2日目④ 楊靖宇2010/09/22

*靖宇陵園…抗日連軍の指導者で日本軍に殺害された楊靖宇の遺体を安置した陵園。通化の街を見下ろす丘の上に位置する。楊靖宇(1905~1940)は、河南省出身の共産党員で東北抗日連軍の指導者。満州事変後、中共中央の指令で「満州」へ渡り、東北抗日連軍第1路軍を結成、「満州」各地で活発な反満・抗日ゲリラ活動を展開した。

☆通化 泊 匯豊大酒店(4つ星クラス)

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 3日目① 白家堡子万人坑2010/09/23

9/23(木) 通化周辺と遼源

7:30ホテル発、白山市へ移動(約1時間)■白家堡子の万人坑(白家堡子惨案紀念碑とお墓)を参観予定だったが、あと10キロというところで、片側道路工事中!対向車が来たら、バックするしかないという事で、諦めて石人へ向かう。残念だけど仕方がない(T_T)。白家堡子まではどんどん山を登っていき、ここも見晴らしが素晴らしく平和で美しいところだった。そこで、平頂山事件のような虐殺事件があったのだ。是非、現場で慰霊したかったが、それはまたの機会にする。車中で祈りを捧げる。

② 白家堡子万人坑・・・虐殺による万人坑(吉林省通化県興林郷)

白家堡子惨案と万人坑 

ここは典型的な虐殺による万人坑です。白家堡子は吉林省通化県興林郷にある村です。1936年7月15日、日本侵略軍が討伐として、ここの住民400人あまりを虐殺し、白家堡子惨案を起こした。《通化文史資料》第1集を参考。
9・18事変の後、中国共産党の指導を基にして、中国人民が奮起して日本侵略者に反抗した。東満地区は抗日連軍第一軍が多く活動していたところです。興林郷の大部分は当時の河里の基地として、病院や布団工場など皆そこにおいたり、軍隊の整備と訓練もすべてそこで行った。それで興林郷地区は日本軍がとても気になるところとなった。1936年に「治安粛正三ヵ年計画」を作り、そのうち東満に対する討伐が一つの重要な内容となった。

1936年7月、抗日連軍部隊が雷家門溝で日本軍の討伐隊を襲撃した。日本軍は白家堡子周囲25キロの範囲を「通匪区」と考えて、この地区で報復的な討伐を行うことを決めた。7月14日、翌日に大荒溝に集まって皆には食料を配ると村民たちに嘘をついた。普通の村民たちは日本軍が何をするつもりかわからないので心配して行くつもりはなかった。
 翌日の朝、日本軍の中山大尉が中隊を連れて、白家堡子地区に闖入し、村民の皆を捕まえ、紐で縛り付けてから大荒溝に追い払った。反抗する人や歩行が困難で妊婦や年配者をその場で殺した。正午、日本軍が捕まえた400人あまりの村民達を大荒溝警察署の庭中に集め、分けて拷問した。通匪者だと見なされた人はその場で銃剣で刺し殺したり絞め殺したりした。その後、村民を分けて死刑執行場まで追い払って、銃剣で刺し殺した。死体は山ほど積み重ねた。最後は残った数多くない人を東山根まで追い払って、機関銃で掃射し、皆を殺した。虐殺中に、日本軍が妊婦の腹を銃剣で切って、赤ん坊を銃剣の先で遊んでいた。
  翌日、警察が人を東山根へ死体を埋めに生かせた。九つの穴を掘り、374体の死体を埋めた。村で殺された人や重傷して死んだ人を入れたら、計400人あまりの平民が殺された。1965年、通化県人民政府は白家堡子に殉難同胞記念碑を建て、碑の後ろにコンクリートの墓を作って、死んだ人たちの遺骨を埋めた。1983年12月、今の人たちが日本帝国主義の罪を忘れないように、吉林省政府は白家堡子惨案記念地を吉林省の重点文物保護単位に指定した。
(中国資料:日本关东军罪行より)

* 白家堡子の万人坑・・・今回は現場まで行けず。。。(ToT)

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 3日目② 石人血泪山万人坑2010/09/23

道をききながら、石人血泪山万人坑へ辿りつく。ここは youtube に荒れ果てた展示館の内部の映像が投稿されていたり、ネットで情報を見つけられた。が、ここ数十年は管理者がなく、荒廃した状態になっている。私は平頂山のように整備された立派な記念館だけを参観するつもりはない。この旅のテーマは「学習」と「慰霊」。見学できる遺骨や展示がなくても、慰霊の意味で、この約1万人の人々が埋まっている石人血泪山万人坑は是非訪れたかった。現状では予算の関係で参観しやすいところの施設を充実したものにするため(例えば平頂山の記念館)対象にならないところは放置されている状態のようだ。昨年、訪れた遼寧省の弓張嶺の万人坑を見た時、本当に悲しかった。あまりに平頂山と違いすぎて、、、この石人血泪山万人坑も同じだ。平頂山の対極にある。今年の4月、中国の新聞が石人血泪山万人坑について報じている記事を見た。漢字だらけの中国語の文字から察するに、歴史の跡が放置されている現状と、速やかな整備や修復が必要だ、というような意味が書いてあった。是非、そうして欲しい。

* 階段を上がったところに紀念碑があり、階段の上り口には当時、日本人に協力した3人の実在した中国人の像が跪いている像がある。

 ③ 石人血泪山万人坑・・・炭鉱労働現場の万人坑(吉林省白山市郊外)

吉林省江源県大石人鎮光環街の北側に位置する。時期は1945年。1983年11月24日吉林省人民政府に重点文物保護単位と指定された。もともと「浴淋塔山」と称され、敷地は50万平米ある。日本軍とその傀儡軍が統治した時、石人鉱で亡くなった1万人余りをここに埋めたため「血泪山」と呼ばれた。1963年、階級教育展覧館を建て、記念所8箇所が作られ総面積は1300平米ある。真ん中には高さ15メートルの記念碑があり、
「日偽統治時期死難鉱工記念碑」と書いている。碑から下に百段の階段があり、入口には鉄で鋳造された、跪いている罪人像がある。現在は一部分の建物が壊れている。

当時、日本侵略者が白山市石人鎮で炭鉱を開設し、多くの漢奸や手先を集めて、各地から連行された労働者を監視した。死んだり病気になったりした労働者を炭鉱の近くにある山に捨てた。それで「血涙山」と呼ばれた。山には長さ200メートル深さ3メートルの溝があり、労働者の死体は溝に平らに埋められて、「填人溝」と呼ばれる。
雨の時は、死体は流されて、山腹は白骨で覆われ、「白骨坂」となった。山腹にでこぼこのところがあり、下は白骨ばかりで、万人坑と称される。万人坑は何十箇所からなっている。新中国が成立した後、ここで長さ39メートル、幅6.6メートル、深さ2.6メートルの穴を掘ったが、その内の10メートルだけで38体の死体が現れた。

1964年、通化鉱務局が白山市石人鎮血涙山の万人坑の近くに教育展覧館を建て、当時の日本侵略者が中国の労働者を酷使する悲惨な歴史を展示していた。しかし、今現在は血涙山にあった一部分の実物や遺跡はもうすっかりなくなった。展覧館も没落した。血涙山では見学できるポイントは記念碑以外に8つあった。それぞれ老君廟、父子墳、夫妻墳、万人坑、填人溝、尸骨重(白骨が重なる)、白骨坂、遺骨館があった。だが、現在は沢山の建物は人為的に破壊されたり取り壊されたりして、記念碑とその東にある花輪長廊および父子墳、夫妻墳以外はまったく残されていない。血涙山遺跡は急いで再建し、愛国主義教育の使命を負うべき教育的使命である。
(中国資料:日本关东军罪行より)

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 3日目③ 遼源炭鉱の万人坑2010/09/23

12:30~13:30白山市内にて昼食。遼源へ移動(約3,5時間強、、予想より遠かった)
16時頃~ ■遼源炭鉱の万人坑を見学(遼源鉱工文物館・遼源鉱工墓・遺骨保存館・遼源鉱務局など) 元館長から当時のお話を聴く。近年退職された劉元館長さんの尽力で2006年にこちらの展示が完成されたとのこと。大変見応えのある、内容のある展示だった。一人でも、その「思い」がこうした形になるのだ!と嬉しかった。 
遺体は整然と並べた形で発掘された当時のまま。手足がないのはすでに腐っていたのでないのだという。万人坑というと、無造作に投げ込まれたイメージがあるが、時期によれば棺に入れて埋葬されていたり、このように整然と埋葬された場合もある。埋葬された時期がわかれば、人のいのちの扱いがどのように変化したのかも推察や分析ができるだろう。

ここにも中国人の親方?のような、後ろ手を縛られて跪く像がひとつあり、鼻はなくなっていた。。。
 
遼源市内にて劉館長と共に夕食後、ホテルチェックイン

☆遼源 泊 雅柏国際大酒店(4つ星クラス)


④ 遼源炭鉱万人坑・・・炭鉱労働現場の万人坑(吉林省遼源市郊外)

旧称=西安炭鉱(現在は遼源炭鉱)
1931年~ 西安炭鉱(株) 
1934年~ 満州炭鉱(株)
西安鉱業所 石炭=1581万トン略奪。
労工の大部分は華北から。だまして募集したり強制連行したり。鉄条網内の宿舎に監禁。狼犬が逃亡監視。

逃亡に失敗し、みせしめで狼犬に食い殺される人。 刑罰=80種類。みせしめで手足を切り落とされた人。人間地獄、過酷な労働。

多数が約半年で死亡。1年以上生きて働く人は3分の1。労工の平均寿命=30・5歳。

1963年に遺骨が発見された牛世清さんの労働票(1ヶ月の賃金明細)賃金32元。食費・住居費・野菜代・借金返済・等々差し引かれ4元不足。死者=8万人以上 ⇒ 6つの万人坑
そのうち、遼源鉱工墓のある方家塚万人坑に1万人。1941年から遺体を埋めはじめ、1年8ヶ月でいっぱいに。⇒ 煉人坑(遺体焼却炉)1943年から稼動 
方家塚万人坑:1963年発見 面積20万平方メートル 
発掘現場の一部を遺骨保存館にして保存、3列179体の遺骨。展示館:2001年建設開始。遼源鉱工文物館・遼源鉱工墓2004年建屋は完成、内装と展示は未完成。
(青木茂さん 2004年訪問時情報より)

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 4日目① 河本大作が住んでいた家2010/09/24

9/24(金) 遼源 → 吉林
今朝も劉館長のご協力で遼源市内をフィールドワークする。先ずは日本の神社跡。鳥居の立っていた基盤や参拝前の手洗いの石が残っていた。そして、河本大作が住んでいた家を外から見学。最後に当時の炭坑事務所(現在も)も外から見学して、遼源を出発した。

劉元館長さんは退職したので、これから時間があるし、今後も記念館のサポートをしていく、と仰っていた。退職しても毎日、記念館には来られているそうです。

* 河本大作 (1983~1955年)が住んでいた家
昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の首謀者として知られる。

万人坑を知る旅 ~吉林省の万人坑~ 4日目② 豊満ダム工事の万人坑2010/09/24

専用車にて吉林へ移動(長春を結ぶ高速道路で約3,5時間)昼食後、■豊満水力発電所工事の万人坑を見学(吉林市労工記念館・資料館・遺骨館など)現館長と交流。ダム工事による犠牲と思っていたので、ダムのすぐそばかと思いきや、やや山間に入った奥まったところにあった。バスは入れず、途中から歩いていく。常駐の職員さんはおられず、前もってお知らせし、市内からここを管轄のひとつとする担当者が来て説明されるようだ。館長さんも待機して下さっていた。ここの展示は絵が多く、具体的なエピソード(どのように抵抗したのか等の例)が図解され、興味深かった。参加者にはここに展示されていた1週間でだめになる白い履物が、あまりの命の扱いの軽さを象徴していた、と今回の旅で一番印象深かったと言われた。「豊満ダムは日本が作ったものじゃない、資金も人力も中国人によるもの。技術は日本だったかもしれないけど」これも着目すべき事実だった。
明日が最後の晩になるが、明後日は朝が早いので、今夜、李老師と感想交換の時を持つ。初参加者の感想は「意識を持って「知る」必要があると感じた」「本当のものを見てみたかった!」「ここまで来て、簡単には行けない、しんどい思いをして、見て、肌で体験して本当の事を知る事が大事」長距離移動の旅。中高年の皆さんには本当にお疲れ様でした。

☆吉林 泊 松花江沿いに建つ吉林霧松賓館(4つ星クラス)


⑤ 豊満万人坑・・・水力発電所(ダム)建設工事現場の万人坑(吉林省吉林市)

松花江を堰き止める巨大ダム。 高さ91m×長さ1100m
1937年4月=着工 1942年9月=堤堰および発電施設
完成 1943年春 発電開始
労工の集め方:①だます ②捕虜 ③勤労奉仕隊=強制徴用 
12万人~15万人を動員
長時間労働 12時間労働の2交代制 安全無視 
危険な作業 事故
賃金を諸経費が上回る。働くほどに借金が増す。 
ひどい宿舎 冬はマイナス40℃ 着るもの無し ひどい食事 
病院なし 治療なし  10種類の刑罰を具体的に展示。

死者=1万5000人  最初は工事現場近くに、その後は東の山の墓地に埋めた。吉林市労工記念館  
遺骨保存館=万人坑発掘現場(青木茂さん 2004年訪問時情報より)

* 頭蓋骨を傷つけられた遺骨