惜別 崔仁杰老師 ― 2010/08/16
故桧山高雄さんの反戦絵画パネル展、無事終了しました。両親も手伝ってくれて感謝でした(^^)/ 親子で共に活動できることにも感謝です。
色紙の文字はお父ちゃんが書いてくれました。(私には書けましぇん。。)今回もしみじみと一度でもいいから、桧山さんに会ってみたかった!とか、崔先生との思い出に静かにゆっくりとひたることができました。
パネル展の数日前に先生の遺影をプリンターで印刷していた、ちょうどその時、撫順在住の山本さんから電話が入り、問い合わせていた先生のお墓のことを知らせて下さった。
崔先生のご遺体は葬儀後、火葬され撫順の河に流されました。先生が育った朝鮮へ帰り、そこから日本海へ流れていったでしょう、とのこと。撫順にお墓はなく、先生はいつも私たちと共におられるように感じます。
昨年、ご自宅へお邪魔して、お別れする時にお礼を言ったら「水臭いことは言わないで」と笑顔で言われたのが最後になりました。
先生との出会いに感謝します。褒めて下さったこと、叱って下さったこと、温かくいつも親しみをもって接して下さったこと、すべて、すべて、ありがとうございました。
崔 仁 杰 老師
朝鮮族 吉林省海竜県人。1926年10月生まれ。
1948年、工作に参加。1953年1月撫順戦犯管理所へ転勤。新生中国政府の日本人戦犯に対する人道政策のため、管理教育官、通訳官を担任する。
2010年4月3日撫順にて逝去。
色紙の文字はお父ちゃんが書いてくれました。(私には書けましぇん。。)今回もしみじみと一度でもいいから、桧山さんに会ってみたかった!とか、崔先生との思い出に静かにゆっくりとひたることができました。
パネル展の数日前に先生の遺影をプリンターで印刷していた、ちょうどその時、撫順在住の山本さんから電話が入り、問い合わせていた先生のお墓のことを知らせて下さった。
崔先生のご遺体は葬儀後、火葬され撫順の河に流されました。先生が育った朝鮮へ帰り、そこから日本海へ流れていったでしょう、とのこと。撫順にお墓はなく、先生はいつも私たちと共におられるように感じます。
昨年、ご自宅へお邪魔して、お別れする時にお礼を言ったら「水臭いことは言わないで」と笑顔で言われたのが最後になりました。
先生との出会いに感謝します。褒めて下さったこと、叱って下さったこと、温かくいつも親しみをもって接して下さったこと、すべて、すべて、ありがとうございました。
崔 仁 杰 老師
朝鮮族 吉林省海竜県人。1926年10月生まれ。
1948年、工作に参加。1953年1月撫順戦犯管理所へ転勤。新生中国政府の日本人戦犯に対する人道政策のため、管理教育官、通訳官を担任する。
2010年4月3日撫順にて逝去。